- はじめに -
最初に『ダークアリス』が発表されたとき、脚本・演出が『仮面ライダー斬月』の毛利さんだったこともあり、少しだけ気になっていた。こういう演目をやられるのだなあ、どんな感じなのかなあ、と。その段階では「萩が出るかも??」とは全く思っていなかった。思っていなかったのだけれど、2019/5/9に出演者が発表されたときに、最初に思ったことは「毛利さん!!!」だったし、主催が「東映・文化放送」だとわかったときにはやっぱり「東映!!!」と思った。
『仮面ライダー斬月』(-鎧武外伝- アイム役)は、これから先ずっと萩の背骨の一部になって彼の芸能人生を支えるのだ。それだけの出来栄えだったと、実績をつくったと、改めて思える。本当に特別なこと。こんなに良いことが続くなんて。どこにどうやって御礼をすればよいのか。
あと個人的には銀之丞さんと萩が共演できる機会があるとは思わなかった。素晴らしい経験が積めるよはぎちゃん!
〈公式サイトより抜粋〉
リーディングシアター『ダークアリス』(サンシャイン劇場)
脚本・演出:毛利亘宏(少年社中) 主催:東映・文化放送毛利亘宏(少年社中)がお届けする、「不思議の国のアリス」をモチーフにした ダークファンタジー。
不思議の国に迷い込んだ少女が、 そこで知る『真実』とは。
極上の『謎』を、至高のライブ演奏と ともにお届けする、新感覚の朗読劇です。
- ダークアリスの世界 -
できるだけ当日まで他の出演者回のステージ写真などのニュースは見ないようにしていた。衣装も。ただ斬月でご一緒させていただいた久保田悠来さんのお姿だけはTwitter等で拝見していた。そこはさすがに(萩出演回を観終えたあと、各回の皆さんのお写真や記事諸々を拝見しました)。
サンシャイン劇場の扉をあけると、ステージのうえにはさらにテーブル型の八百屋舞台。椅子が3脚。下手にキーボード、上手に打楽器類。センターのバックには目隠しされた人物画、天井あたりには複数のトランプ。赤や黒の数字のカード、黒ウサギや猫、青虫等のカードも。まさに絵本のようだった。
開場してすぐにパンフレットと、上演台本を買った。萩のお仕事で、台本が買える日が来るなんて...! こんなにありがたいことはなく。あれこれ振り返ったりあの台詞がよかったな、なんて思うときにすぐに確認できる台本が手元にあるなんて。演劇畑はこれが最高。そしてこの台本、6/2の3公演目が終わったときにはきっちりSOLD OUTしていた。
そしてパンフレットも台本も、すべての公演を観終わるまでは開かなかった。カケラほどのネタバレも避けたい。
- 朗読・声の仕事 -
萩にとって初めての「朗読」ありきの演目。自分も朗読ベースのものをきちんと観るのはおそらく初めてだと思う。ただ、ダンサーがいて、生演奏があり(効果音なども含む)、ステージ演出や衣装の様子をみていると、比較的「舞台」寄りのものだと思えた。そのあたりが「朗読劇」ではなく「リーディングシアター」と銘打っている理由なのかもしれない。
今回の仕事が決まった嬉しさは、何より「声」が重視されていると感じたから。
本当に声が良い人なのだとずっとずっとずっと思ってきたし言い続けてきたし、しかもそれはとても2次元的な含みのある良い声なのだと(そして本人もそちらのカルチャーに実際にハマっていたし)。いつか「声」の仕事や、「声」が圧倒的に重視された仕事を頂きたいと思ってきた。でもそれがとてもむずかしいことで、機会が少ないことなのもわかっていた。(そして一度は環境的に相当厳しいところに追い込まれていたのに...あの時期が嘘のようだ...)まさかこういう形でチャンスがあるとは、というのが本音でもあって。とにかく決まっただけで感無量で。
思えばこの時点では、まだ何もわかっていなかった。萩は、あの斬月アイムをやった男だった。よってそこまでは勿論想像ができている。あそこまでやって見せたのだから、きっとこの朗読でも相当やって見せるだろうという信頼はもちろんあった。
でも、もうそんなもんじゃなかった。私が知っている、知っていた範疇になど全く収まっていない。『ダークアリス』を観たあとのあの消耗というのか脱力感は、「萩谷慧悟、何がどこまで出来るのか、もう全く見えないしわからない」という、とんでもない可能性の広がりを目の当たりにしたせいだと思う。
- ダークアリス本編 -
出演者は3名。水谷亜梨沙役、黒ウサギ他を演じる男、誘拐犯他を演じる男。
黒ウサギ他を演じる男が最初にステージに現れる。これが石川界人さんだった。萩がこちらの役なのかと! そう思っていたのは、前日に出演された久保田さんが黒ウサギ側の役だったからだと思う。クレジットの並びなどから久保田さんと萩は同じ配役なのでは、と思い込んでいた。
このあと、最初にステージに現れた萩は、大きなフードを被っていた。誘拐犯。フードでほとんど顔は見えないが、顎が見えている。その口から、それほど若くない印象の男の声が出てくる。重めの声。そして誘拐犯は、途中、亜梨沙がいった言葉、そしてその恋人が言った台詞も話し出す。「ごめん、佑くん!」とか「ううん。大丈夫。俺の方こそごめんね、亜梨沙」とか。
「声色」というものを、こんなに調整できる人だったのかと、このあたりからもう「参りました...」みたいな気持ちになってきたことを思い出す。いや斬月だってそうだったじゃないか... そうだったけどさ...
そしてこれは序の口で、このあとの多様さといったら。
黒ウサギ他を演じる男、誘拐犯他を演じる男、それぞれが「地の文」の読み手に回る(ナレーション的な役割もある)。萩が地の文読みのときには、主に黒ウサギが喋りまくるターンになる。
石川界人さんの黒ウサギは跳ねまくり、銀之丞さんの黒ウサギは何というのか若干妖怪めいていたし執事のようでもあった。この両方と組めたのは本当に貴重なことだっただろうし、特に2人の年齢が極端に離れている分、銀さんとの組み合わせは興味深かった(あらゆるものが圧倒的に違っていてそこがいい味になっている感じ)。
その後、「誘拐犯他を演じる男」がいくつものキャラクターを演じ分けていく。
こればかりは実際にステージを観た・聴いた人にしかわからない。それが生のステージというものだけれど、でもちょっとそういうこととも話が違う。生の勢いとかそういうレベルではない「演じ分け」「キャラクター分け」「声色の違う表現」が出来ていて、それなりに長い間、彼を追いかけて観続けてきた自分にとっても衝撃的なことであって。何と言えばいいのか。こんなことが出来たのか、萩は...と。
このあと出てくるキャラクターは....
青虫(水ぎせるをふかす爺さん)
チェシャ猫(一人称は「にゃあ」)
帽子屋(お茶会マッドハッター)
トランプ1〜3(上手椅子:スペードの5、中央椅子:ダイヤの3、下手椅子:クラブの7 / 椅子を移動しながらの3役台詞)
王様(とにかく「打ち首じゃ!」)
凄まじかった。過去に聴いたことのない声、朗読劇なのだからそこまで演技をつける必要はないのかもしれないけれど(手振り身振りや表情はもちろんふつうのことなのだけれど)、完全に顔がそのキャラクターになっている、顔どころかもうがっつりアクションまでついていた。
〈 このへんからやや脱線します 〉
青虫の爺さんはステージに座り込んで前のめりに三白眼で亜梨沙を覗き込む。この声は聴いたことがないな... と唸りながら爺さんの声を聴いていた。目を閉じて聞くと、本当に不思議な気持ちになった。
チェシャ猫の話はキリがないほどなのだけれど「にゃあとしたことが(にんまり)」を筆頭にとんでもなく魅力的だった。あれは萩そのものの可愛らしさがうまいことにじみ出ていてそれがたまらなく良かったんだろうなあと思うし、台詞をいうたびに口角をあげて「にんまり」している様子とか、少しはずむように、でもねっとりとした言い回しで、時々おしゃまな女の子みたいな味付けもされていて。
どれも好きだけどこのへん特に好きですねランキングは....「お話でもする?(にんまり)」「ずーっと口が閉じられない(にんまり)」「お前は咎人 重罪人(じゅう ざい にんっ)」ってこの区切り方、スタッカート感が...... ここ最高ではなかったですか。ですよね。でしょうね!!!
あとあとあと「良くて打ち首 悪くて打ち首(にんまり)」も最高に打ち首だったな... あのにんまりした顔!
「そうだろうと思った」のあとに、下手側に回って膝で立って「アリス?」って声をかける姿とかね... あの膝で立つ萩といったら、おそらく全萩谷の会の皆さんが「ヒイ!カワイイ!」ってなったと思うのですが。
あとチェシャ猫は姿を現したり消したりするときには口だけが見えがち設定で。この場面の最後に消え去るときにも「きわめてゆっくり消える」んだけど、やっぱり最後に「にんまりした口」だけが残るのね。その様子を演じる姿といったら、おそらく全萩谷の会の皆さんがたまらなかったんと思うのだけれど、コマ送りみたいにちょっとずつ、立っている椅子から降りていく。最後にまたひとつ、「にんまり」としながら。朗読劇だっていうのに、あんなかわいいアクションありますかね。ありましたね!!!
やはりこの話終わらないのでまたそのうち改めよう...
帽子屋とトランプたちと王様の話はもうまたこんどな...(ちなみに私は下手椅子のトランプ クラブの7ちゃんがとてもすきです。机にかるく突っ伏してジタバタしてて一番末っ子ちゃんみたいだった。このトランプ1〜3は椅子を移動しながら台詞を言うのだけれど、スススっと急いで移動してスタッと座る萩がとてもとてもとても略)
〈 脱線終了したつもり 〉
そしてハットを脱いだ帽子屋も、王様も、誰かの顔をしているし、亜梨沙の裁判に現れた証人(誘拐犯)もまた、誰かの顔をしている。その誰かとは勿論...
その「誰か」を演じるのもまた「誘拐犯他を演じる男」で、ストーリーは終盤、この「誘拐犯他を演じる男」の熱量で突然のギアチェンジをくらい、嗚呼そういうお話だったのか、いやそんな予感は勿論していた、していたけれども... という気持ちに襲われる。
そして先にも述べた通り、「萩谷慧悟、何がどこまで出来るのか、もう全く見えないしわからない」という、とんでもない可能性の広がりが、終演後に残る。
そもそも、よくこんなに難しいことを萩にやらせようという話になったなと... つまり、もう彼はそういうところで生きているし、そう見込まれてもいるのだ。ため息が出る。本当に。素晴らしいことだと。
- さいごに -
ストーリーの根幹は、とても身につまされる話であって。偶然、この話を観た翌日にちょっとした出来事があり、そのとき本当に自然に『ダークアリス』のことを思い出した。それは言葉にしてしまえば簡単なことで、私たちが日常気をつけているつもり(だけどなかなか出来ていない)のことだったりもする。
良い脚本だったと思う。日々の生活に少しだけ何らかの良い作用を残す。
そういう仕事に萩が携われ、そのおかげで私や私たちがあのステージを観られた。幸せな経験であるし、またこんな機会があったら何よりうれしいことだと思うし、出来たら、また毛利さんの現場に萩が居てほしい。
だってあの斬月から、このダークアリスを見せられたら、そう願わないほうが嘘でしょう。